新しい歴史教科書をつくる会
日本軍は命がけで沖縄県民を守った!
「集団自決」教科書検定問題の背景 (続き)
フリージャーナリスト 恵 隆之介
日本軍は命がけで沖縄県民を守った?
●沖縄県平和祈念資料館展示の嘘
それで、次がもっと問題であります。沖縄戦がいよいよ激化しますと、避難住民が次々と戦闘用の濠に流入してきました。私は伯母の最期を知りたくて、ひめゆり部隊女子学徒の証言集を時々読んでいますが、米軍は壕の前で、
投降勧告に応じなければすかさずガス弾を投入し、
火炎放射器で攻撃して来たのです。
このひめゆり部隊を引率している陸軍の将校や下士官たちが、
「あなた方は生きて沖縄のために尽くしなさい」
と言いました。
すると、女子学徒は何と言ったと思いますか。
「死ぬ時まで一緒と言いながら、
ここに至って投降せよと言うんですか」
と喰ってかかっているのです。
こういった証言がいくつも残っています。
そこで、帝国陸軍の将校や下士官たちは抜刀して
「ここまで言っても分からぬのか、たたっ斬るぞ」
と言って、壕の外に追い出して投降させているのです。
そういうふうにして救助されて、今日、生きている当時の女子学徒が多数いるのです。
ところが、沖縄の糸満市に沖縄県平和祈念資料館というのがあり、戦闘中における壕の中の生活を蝋人形で再現したとして、母子に対して着剣した兵士が威嚇しているシーンがあります。
修学旅行で全国から来る青少年の数は沖縄県が一番多いんですが、この青少年たちは平和祈念資料館でこういったシーンを見せられて帰って行く。
頭の中には、もう左翼のウイルスが打ち込まれて行くのであります。
こんな人形は撤去すべきなんです。
ここでひめゆり学徒の証言、他の方々の証言を総合しますと、ああいった極限状態で、
「みなさん、早く投降してください」
と言われてそれに従ったら、
同じ沖縄県民からも恨まれるという状況だったのです。
それで、着剣して強制的に壕から出して助けたという例が多々あったのです。
本島南部でも、自決しようとした住民を着剣して威嚇して投降させています。
ひめゆり学徒の証言や、当事者能力を持っておられた方々の証言を読んだり聞いたりしていますと、
その中に軍から
「自決せよ」とか「死ね」
とか言われた話はどこにも、一言も出てこないんです。
では、いったい何を根拠に日本軍を非難しているのかと言いますと、
「疎開というのは下心があってやったのだ。
次の戦闘力を保存し、戦争に動員するための手段であった」
という曲解です。
私は沖縄県民として恥ずかしい。
これは戦前からあつた沖縄県民の欠点であり、
日本本土に対する被害者意識、ひがみと言うべきものです。
それが見事に左翼に利用されている。
●立派だった日本軍将兵
では、一般兵士はどう戦ったのかと言いますと、これも実際にあった話です。
昭和59年5月16日の毎日新開に掲載された記事ですが、アメリカのシカゴに住んでいる米陸軍の軍曹だったイラン・ポニックさんという人が、こういうことを言っています。
「沖縄本島南部で、両足を銃弾で打ち抜かれて倒れている
沖縄の少年がいたので、助け上げて救命していた。
すると、日本兵が至近距離まで近づいてきて、
狙撃されかかった。
ところが、その日本兵は、米兵が少年を介抱しているとわかって
銃口を下げた。
ポニックさんが『サンキュー』
といったら、その日本兵も頭を下げて去っていった」
というのです。
だから、是非、この日本兵に会って御礼が言いたい、
という趣旨の記事でした。
その日本兵とは千葉県にお住まいの
石橋明元上等兵で、
昭和59年当時はご存命です。
いかにお二人の証言が一致するか、ちょっと紹介させてもらいます。
石橋さんは当時27歳で、球(たま)部隊独立機関銃第一八八〇九隊に属していました。
残存部隊に合流するため沖縄県の最南端に向かう途中で、県人避難民45名と米兵を発見したそうです。
米兵が背を屈めて日本人の子供に触れていたので、
虐待しているのではと思い、後方から近づいて米兵の正面に立ち、
撃とうとした。
その時、実弾が五発入っていたと言いますから、確実に撃てたのです。
ところが、米兵が子供を介抱していることを発見したので、
殺す必要はないと思ったそうです。
これは昭和20年6月20日のことでした。
沖縄戦が終結したのは6月23日ですので、最後の戦いだったんです。
殺す必要はないと銃口を下に向け、その場を立ち去ったそうですが、その次がまた偉いんです。
近くには避難民とそれを監視していた米兵たちがいた。
発砲すれば住民も犠牲になるからということもあって
発砲を控えたということであります。
ですから、上は大田實海軍中将から、
下はこういう兵士に至るまで、日本の国威と
沖縄の将来のため真剣に戦ったのです。
皆様、それをぜひ理解してほしいのです。
残念ながら、自衛隊でさえも最近はこういった歴史教育をしきれなくなっている。
今回の検定意見撤回を求めた県民大会には制服自衛官までもが参加していました。
実は私は今日、「新しい歴史教科書をつくる会」が行った記者会見に同席し、沖縄戦のネガティブなところだけ教科書に掲載するのではなく、今お話しした内容のことも掲載してくれと要請いたしました。
●疎開で十六万人の命が助かった
ここでもう一度、要点を四点確認申し上げます。
第一は、疎開計画に基づいて、延べ187隻の船舶と車輌をもって16万人の命が助かったという点です。
ちなみに、沖縄戦における非戦闘員の犠牲は3万6956人で、
この方々の多くは県の避難勧告に
従わなかったからこうなったのであります。
はっきり言わしてもらいます。
第二に、憲兵による避難誘導の話です。この憲兵の方は最後まで住民の避難誘導につとめ、戦死されました。
第三に、大田海軍中将が最期の電文
「沖縄県民斯ク戦ヘリ、後世特別ノ御高配ヲ賜ランコトヲ」
を打電しました。
沖縄が昭和47年に返還された時、当時の佐藤総理は
「沖縄県民の労苦に報いることであれば、
国費をいくら投入してもよい」
と述べ、その結果、平成12年までに
約10兆5000億円が投下されました。
隣の奄美大島は戦前より人口が減っていますが、沖縄県はこの結果、
ブクブク太って戦前の人口の二倍を突破し、
現在138万人に達しています。
第四に、最近、共通一次試験にも出題されましたが、
「沖縄にある米軍基地は、在日米軍基地の75%が集中している」
という話です。
しかし、これは大変なデマゴギーで、
実は沖縄にある在日米軍基地は全国の
23.5%しかありません。
75%と言いますのは「米軍専用施設」の中だけの比率であり、
岩国、三沢、佐世保、横須賀等の広大な施設、
これら米軍・自衛隊共有施設は分母に含まれていないのです。
ところが、こういったデマが全国民の頭の中にまで組み込まれてしまい、
「沖縄の負担に鑑みると意見を言えない」
という国会議員の先生方もいっぱいいらっしやるのです。
先ほど申し上げましたように、沖縄県は対馬丸記念館を建てたり、平和祈念資料館の蝋人形をつくったり、
反日施策を実施している。
一方、政府は沖縄県民におもねって金をドンドン投下しています。
この悪循環の下に、県内の児童と本土から来た青少年がこのような施設を見て、
「ああ、日本軍はけしからんな」
と当然思わせられ、左翼のウイルスを頭に残置させられるのです。
ですから、厳しい意見や反論も沖縄県民にどんどん言ってください。
不要な哀れみをする必要ありません。
私はまともな沖縄県民として、勇気を持ってこれからも行動して行きたいと思っております。
(本稿は、平成19年11月13日に行われた講演の抄録です。6頁・8頁参照)
●Takashi
■ビューポイント、沖縄戦「集団自決」から62年真実の攻防69ページから写真を掲載。
渡嘉敷島の元防衛隊員や地元の婦人たちに囲まれて、
和やかに記念撮影に収まる元赤松隊の一行=昭和59年撮影

●Takashi
証言も重要ですが、この写真も重要ですよ。
自決命令が本当にあったのなら、島民の方々は軍人を憎むはずです。
しかし、実際は仲良く記念撮影ですよ。良い写真です。
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【ふみ】1月号 (通巻66号)新しい歴史教科書をつくる会





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