「敗戦革命」実施の左翼は靖国の英霊に謝罪せよ
窪田孝司
---「国立追悼施設構想」断乎反対 ---
私は現役志願をして軍務に就き、中支那の浙江省慈谿の山中で構築中に終戦を迎えた。
いま思えばその間、私の所属した大隊も中隊も共産軍への対応が甘かったと思えてならない。一兵士の知った小さな事実ではあるが、共産軍の天下取りに向けた執拗さを感じるのである。
浙江省の寧波で軍務に就いていた時、同じ中隊の古年兵が、士官の日本刀や軍隊手帳等を奪って脱走した。真夜の出来事で、二十数人規模の捜索隊を編成して出動したが、脱走兵を探し出すことはできなかった。
その事件の後に、同じ大隊の出先き機関である警備隊が共産軍に襲撃され、歩兵砲中隊が救出に向かった。その時に捕縛した女兵士が
「あの日本兵(脱走兵)は、共産軍の一員として活動している」
と語ったということを、かなり時を経てから内務班の古年兵から聞かされた。
寧波から二里ほど奥へ入った慈谿でのことである。その地へ着いた途端、内務班の古年兵から 「山中には共産軍がいるから…」と注意を受け、演習中に、支那服の男(実は憲兵)が突然襲いかかって乱闘になる、という訓練が行われ、別の日に憲兵から「敵前逃亡は罪が重い」という講話があった。
ところが、町の民家の壁などに、筆文字で
「日本の兵隊さん、私達の軍隊へいらっしゃい。食事は豚肉に白米の御飯。二階級特進させます」
という貼り紙があり、外出の度に、その貼り紙が、剥がされずにあることを見て、共産軍に対する緊張感の欠如、建前と実態の乖離を感じ、さらに共産軍の執拗さに薄気味の悪さを感じた。また、この稿に記すことを憚るようなこともあり、私達下級兵士の耳には届かない(他の部隊での)脱走事件もあったのではないか、と思われてならないのである。
NHKテレビが、今年7月2日の番組「その時歴史が動いた」で「盧溝橋事件・運命の四日間」を放映し、日本側のみを悪者扱いしていた。
然し、事実は次の桂鎮雄氏のレポートの示す通りである。
「盧溝橋事件・真狂人は中共だ/私は東京裁判で事件の証言を中止させられた/支那駐屯歩兵第二連隊陸軍中尉桂鎮雄」(「文藝春秋」昭和63年7月号)。
このレポートの末尾の要点を記しておきたい。
<盧溝橋事件について言えば、中共の謀略がゾルゲからコミンテルンに繋がっていた事を忘れてはならない。
コミンテルンの計画は周到な準備の下、中共に命じて国際戦略の要衝たる盧溝橋で、日本軍と支那軍とを同時に挑発し、双方が本格的戦端を開くように工作した。
警戒心の不十分な日本軍は、蒋介石中央軍のみが敵と信じ込み、まんまとその罠に嵌った>。
軍務に就く以前、東京下町の拙宅近くに陸軍の砲兵工厰のストライキを指導したという共産主義者がいたが、支那事変勃発以降、軍需工場の監督に就き、工場の朝礼で労働者に対し「鬼畜米英排撃」を唱和せよと指導するようになってからは、食糧難の戦時中も、一般庶民よりは恵まれた生活をするようになった。
日本共産党の「綱領」にもあるように、祖国ソ連と中国共産党を守る為には共産主義者は変幻自在で、その一例を挙げれば1928年のコミンテルン指令には
「労働者、農民には軍務拒否をしてはならないと指導せよ」
「武器の使用を習得し、いざという時には武器をブルジョアジーに向けるよう指導せよ」とある。
コミンテルン日本支部(日共)のトップの座にあった佐野学が、「転向した」と称し、「鬼畜米英排撃」を掲げて、参謀本部へ顔パスで出入りしていたことはよく知られている事実だ。
そのことについて、
「佐野学は日本へ回帰して国策に協力した」とする向きがあるが、私はその説を信じない。
事実は、日本を敗亡へ導く為の「敗戦革命」という謀略の実践であったと認識している。
戦中、「私たち母は青年に『笑って死ね』と言う」
とペンの鞭で青年を死に追いやり、戦後、平和運動家の看板を掲げた高良とみ、『橋のない川』の住井すゑは戦時中はソ連と中共に奉仕する「敗戦革命」として、ペンを操り
“進め進め”
を実践していた、というのが私の認識である。
勿論、ペンを操り「敗戦革命」を実践していた人物は他にもいるが、ここでは省略する。
戦後、赤の巣窟と化した「産別会議」を、反共派の民主化同盟が解体させて「総評」を結成したが、初代事務局長の高野実は総評をまたたく間に赤化してしまった。
高野事務局長は日本共産党の秘密党員だったのである。
子息の高野孟たかの はじめ氏が「文藝春秋」平成9年2月号に、
「父は、当時、カクレ共産党員でしたが、親中国ということで、のちに除名された」と述べている。
ゾルゲ・尾崎秀実の仲間であった西園寺公一も、晩年は中共の党員であった。
昭和49年後半と記憶するが、NHKテレビで西園寺が
「あの戦争は俺達がやったんだ」
とニヤニヤしながら語っていたことは、今も脳裏から離れない。腹立たしい事実である。
共産主義者の活動は、様々に化ける忍者のように変幻自在なのである。それを容易にしているのが、秘密党員とか偽装転向という仕組みであり、口頭や秘密文書による指令である。日本を守る為には、それを見破る努力を怠ってはならないのである。
戦前戦中に「治安維持法」があっても、コミンテルン、共産主義者の「敗戦革命」に、日本は敗れたのである。
「敗戦革命」の実践として、支那事変のドロ沼化と日米激突を工作したのがゾルゲ、尾崎である。日本を窮地に追い込んだハルノートも、コミンテルンの工作によったものであったことは、広く知られている事実である。
大東亜戦争の仕掛人、誘導者は共産主義者なのである。
私は乃木神社から近い麻布の旧三連隊内に新設された近衛第二師団通信隊に入営した。同年兵の多くは、入営直前に靖国神社と乃木神社に参拝している。その同年兵52名中、2名は戦死し、靖国神社にお祀りされている。現在も、健康な者は4月の桜の時期に催される「同期の桜を歌う会」の開催日に参拝し、「歌う会」に参加している。
当然のことではあるが、政府が画策している「国立追悼施設構想」には断固反対である。
前記の桂鎮雄氏の稿に、毛沢東の発言がある。
「(日本の)皇軍の力なしには、(中国共産党が)権力を奪うことは不可能だった」と。
この言葉と「大東亜戦争はソ連と中国共産党を守る為の共産主義者の謀略」であったことを、国立追悼施設構想の推進者に、是非、認識して頂き、中国の内政干渉を排除するように訴えたい。
さらに特記しておきたい事は、大東亜戦争は先輩の左翼が、
「敗戦革命」の実践として行ったことを今の左翼は承知しているのだ。だから、左翼の諸君は今からでも遅くはない、250万の同胞を死に追いやったその罪を正直に告白して、真の日本人に回帰し、靖国神社に参拝し、土下座して英霊に謝罪してもらいたい。ここに強く訴えておく。
最後に、マッカーサー元帥が、アメリカ極東軍司令部情報部長であったC・A・ウイロビーの著書
『赤色スパイ団の全貌―ゾルゲ事件』(1952年1月)に寄せた序文の一部を次に挙げて、本稿を終りたい。
<ゾルゲ事件は、単に、東京に於て終始した局部的なものではなく、ソヴエートの中国を中心とする極東謀略全体に関連しているものであって、世界的規模の陰謀を背景として考察されねばならない。
また、ゾルゲ・スパイ団の最も活躍した上海は、世界制覇を目的とする狂信的共産主義者の温床であった。今日の中国の完全赤化へと発展した所以である〉。
(江戸町名俚俗研究会主宰)
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