第19128号 國民新聞 平成19年10月25日(木曜日)皇太子殿下に拝謁の栄に浴す
テムジンの友塾塾長・医師 春日 行雄外務省中国課の林伸一郎氏から七月二日にウランバートル空港裏にある「テムジンの友塾」に、電話が入った。
「十二日、皇太子殿下のモンゴルご訪問の折、大使公邸で接見される」
との通知があり、びっくり仰天した。一時間後に日本大使館の一等書記官より「七月十二日午前十一時半に邦人十二名とモンゴル人数名が一緒に謁見、
十分前に来邸あれ。招待状は受取りに来館あれ」と。
早速、辞書をひく。「接見」は身辺かにひき入れて会うこと。
「引見」はひき入れて対面すること。
「謁見」は貴人または目上の人に面会すること。いずれにしても、生まれてから八十六年、無位無冠文字通り貧弱の身には初めてのこと。いずれ私があの世にいる頃「日本国の象徴」と仰がれる方である。
千載一遇である。五年前の夏、秋篠宮、同妃両穀下ご訪モの折、六月二十一日のモンゴル日本センター開館式典に、初代駐日モンゴル大使のダムバダルジャ氏の格別のおはからいで、休憩時、廊下にご退出の好機に殿下に初対面の光栄。その時、
「いろいろな資料を有難うございました」と四年前のお礼のお言葉を戴き感動したことは今でも鮮明に覚えている。さて「平服」と指示されても、いつも作務衣を装う身には、背広は一着のみ。
一時間に約十五人とお会い戴くなると、一人五分間ぐらいであろうか。
早速「ご挨拶」の原稿を書いてみた。<この宿命の地、モンゴルで初めてお声をかけて戴き、千載一遇の好運に恵まれ、まことにありがとうございます。
六十八年前の昭和十四年春、ここから南へ二千キロのところで、前川坦吉先生から「地位や名誉も金も求めず、命さえ惜しまず、モンゴル民族再建のために、
新しいタイプのモンゴル浪人になれ」
と教えられ、爾来一筋に生きてまいりました。
今、あたりを見渡しますと、そんなバカな者は少なく、どうやら
「最後のモンゴル浪人」
になってしまいました。
殿下はご結婚直後、東京・多摩の大嶽山にお揃いでお登りになりましたが、そのご面前に、前触れもなく突然、ある老人が現れ、すぐ直下の大嶽山荘にお招きしたことがあります。この写真をご覧ください。笹目恒雄先生です。
大正十三年夏、モンゴル人民共和国が生まれる前年、ここから東北の満洲ホロンバイルのダライ湖から、ヘルレン川に沿い、サンペーズ(今のチョイバルサン市)の方に牛車で入ったのは、東京の中央大学生二十二歳の笹目恒雄青年でした。
途中でジャムスレン夫人のゲルに立ち寄って話すと、その令息と生年月日が一九〇〇年すなわち明治三十三年の一月三十日、同じ日「双子がモンゴルと日本で」と善ばれ、たちまち養子となり「ナラントムル」と命名して戴いた。当時、茨城県選出の貴族院議員の孫です。
「よおし、モンゴルの青少年の教育に一生を捧げよう」
と決心されます。
そして、渋谷・道玄坂に「戴天義塾」をつくられ、昭和七年の満洲事変まで、留学生を三十人ほど預かられます。
逗子の開成中学の舎監時代、周辺で「満蒙百日の旅」と題して講演されますと、それを耳にされた近くの横須賀要塞司令官の林銑十郎少将(後に大将、首相)に招かれ、たちまち意気投合、昭和八年一月、東京に「日蒙協会」を創立されました。
しかし翌年、当時の国際情勢上、名称を「善隣協会」に変え、早速、徳王治下の内蒙古の各地にモンゴル人のための小学校や診療所、或いは模範牧場を設置され、東京には満洲内蒙古からのモンゴル人の留学生部を設け、井上璞、前川坦吉両先生らにバトンを継がれ、昭和二十年までに延五百人となりました。昭和十四年春、私は内蒙古現地の百八人目の仲間入りをしました。十八歳の時です。
さて、シベリアに抑留、投獄されて十年後、無事帰国された笹目恒雄先生は九十二歳の時ですから、平成四年、私を大嶽山荘に呼ばれ、「春日君、わしは死ぬ前に、もう一度モンゴル人の青少年の教育に携わりたいから手伝ってくれ。その前に、ウランバートルに案内してくれ」と申され、早速、その年の八月にご案内し、一週間滞在されました。
この写真は、モンゴル政府の四階の廊下にありますスフバートルの座像前であります。
そして五年後、まさにお誕生日と同じ平成九年一月三十日に九十七歳、莞爾として亡くなりました。私は一同を代表して弔辞を捧げました。
このボンクラな後継者は、その平成九年夏、やっとウランバートル空港南八キロに、モンゴルの家庭なき少年少女二十人を集めて、ささやかな「テムジンの友塾」を開き、笹目先生を始め、無名のモンゴル浪人先輩のご遺志を継いでおります。
この胸のモンゴル勲章は十五年前、オチルバト大統領からの北極星勲章や、三十六年前のモンゴル人民革命六十周年記念章などです。実は今朝、新しい家庭「テムジンの友塾」のモンゴルの少年少女たちが、
「お爺さんは私達の代表として、日本の皇太子様に、この勲章を胸に飾ってお会いして下さい」
とせがまれたからであります。失礼をお許し下さい>。さて七月十二日当日、大使公邸に一時間半早く着くと、ソドノム元首相、ダムバダルジャ元大使を始めアルマースさんら日本からの叙勲者、柳沢徳次日本モンゴル親善協会理事長の他は初対面の人だった。
まず外務省広報文化交流部企画官の説明。
「接見は三十分間となったので、余計なことは言わないように。
こちらから発言しないように。
ただ日本大使の紹介を受けられた皇太子から一言ずつお言葉があるので、夫々、短く答えられるように」と釘を打たれる。これでは、用意した「五分間の自己紹介」の余地はない。
幸い、老齢、曲がり腰の外観上、
私は入口に向かって半円形列の最先端に立たされた。皇太子殿下は「抑留を始め永い間、日本とモンゴルとの関係にご協力なされ、ご苦労さまでした。
今後も、お身体をご大切に。昨日は、ありがとうございました」と。「昨日」とは、前日、ダムバダルジャ寺院の霊堂の塀に、塾生と並んで「日本皇太子殿下万歳」
「モンゴル殉難日本人霊堂」
と書いた幟を立て、それぞれ手製の白地に日の丸を彩った国旗をかざしてお迎えしたからである。私は
「春日行雄、この宿命の地モンゴルで、初めてお言葉を戴き、ありがとうございます。これは永い間、共に日本とモンゴルの関係に務め、倒れた人々に代わってのことと、有りがたく承ります」と。
日本から来た新聞、テレビの記者は、ご引見前に「異様な爺」の私を質問攻めした。
それではと、今や反古となった「私の自己紹介五分間」の原稿を広げた。後刻、七月二十四日、岐阜県から来塾の中田壽明氏が七月十三日付の毎日紙を持参、拝見した。真鍋光之記者の記事に
「恨みつらみはあるが、私が今あるのは蒙古の人たちのおかげ」と紹介されているが、
「私が今日あるのは、蒙古軍から軍医学校へ派遣されて、医師五十年を勤めあげることが出来たおかげ」
と言ったのに、戦後派として認識の違いが出ている。しかし「毎日インタラクティブ」に「皇太子さまと面会する春日さん」と紹介され、恐縮した。七月九日突然、塾へモンゴル日本友好協会の使者が七月十六日、バヤンゴールホテルで「皇太子殿下歓迎 日本年、モンゴル日本国交三十五周年記念歓迎会」の招待状を持参された。
モンゴル側は、これほど丁重である。モンゴル側は日本への留学生出身者を加えて二百五十人、日本側は五十人の参加という。
当日、会場に作家のダシダワー氏が待っていた。昨年六月四日、突然、見知らぬモンゴル紳士が私の塾に訪ねてきた。六十七歳だという。彼はニヤニヤしながら私の眼前に、手垢に汚れた一枚の名刺を差し出した。たしかに私の古い名刺である。「第一生命横浜医務室診査医長」の肩書。裏面にはモンゴル文字で「ニッポン・モンゴル・キョウカイ・リジチョウ」。「二十七年前、イルクーツクからウランバートルへのモンゴル航空の機上で隣席して戴きました」と言う。
「実は一九七九年(昭和五十四年)六月、北鮮視察の帰途、ハバロフスクから、ずっと同じ飛行機でした。時々、ロシア語やモンゴル語で私達の団長と話されるので関心はあったが、私は四十歳の製粉工場の技師で、隅で聞いていました」と。
「ところが、毎年のようにモンゴル紙に紹介されるカスガユキオに関心を持ち、毎年夏にモンゴル滞在を確認したところ、今年一月十八日のウヌードル紙に、『捕われた日本兵の伝説でない史実』と題し紹介されたカスガユキオを読んで、今年こそ再会しようと決心した。たまたま友人が、昨日それらしい日本人がウランバートル空港に着いた、と聞き早速訪れた」と。
「来年はモンゴルと日本の国交三十五年なので、あなたを主役に『モンゴルにきた日本のサムライ』を一冊の本にまとめたいから」と。ついに、昨夏は七回も取材に来塾。披は社会主義時代はモスクワにも留学し、各アイマクの人民革命党の書記長やウランバートル市の区長も務めた由。作家としての作品も持参した。
ところが意外や意外。彼は一九四六年秋、抑留中の私が追いやられ、「重症患者二人のウランバートルへの送院」で収容所長と口論して銃殺されそうになったり、欠食四日間の抗議をし、四十六人を連れてストをし、地下室牢に入れられようとしたウランバートル北二百五十?のチャガンノール湖畔草刈場の
村長の息子(当時七歳)だったとは。彼は幼な心にその噂を聞いていたという。たちまち拍車がかかり私の帰国前夜まで取材は続いた。
「あなたの著書は文字ばかりで疲れる。やはり所々に写真や挿絵を入れては」
と余計な口出しをしたため、私は帰国後、四十回にわたる「モンゴル墓参」のアルバム百冊を点検するハメとなった。証拠写真とスケッチの数葉を、年内にモンゴルのダシダワー氏の元に送った。
今年六月、ウランバートルの私の机上には彼の手記『オン・チヤギイン・ドルトガル(時々の回想)』が待っていた。
『二十七年ぶりの再会』の中には、私が送った「バイカル湖畔で肩を並べて」が二十七年前に渡した私の名刺のコピーと向い合っている。次のページには今の名刺の「ウランバートル・テムジンの友塾長」の裏表。
私の銃殺直前を傍で見ていた「二人の重患」では、一人は翌年、ウランバートルで亡くなったが、もう一人は生き残ったポーラ化粧品滋賀支店長の深草政行氏と三十一年後、現地を訪れ″生き証人″の務めを果たしてくれた一枚。一九六六年(昭和四十一年)八月、十九年ぶりにウランバートルを訪ねた折、たまたまスフバートル広場で、バッタリと満洲から私の大隊を連れてきて、私に日本人病院の開設を命じたシレーニン中尉が大佐姿で現われ、NHKの永田氏がシャッターを切った一枚。一九八一年七月のモンゴル人民革命五十周年式典に日本から松崎陽会長とともに招かれ、ウランバートルホテルでラティモア教授やオノン教授と歓談中の一枚。そして一九九七年夏、テムジンの友塾の開塾式にソドノム元首相を紹介するところや、十メートルの鯉幟が舞う塾の現況などの挿入である。この日本語訳は木村理子女史にお願いした。
七月十七日夕、バヤンゴールホテルでダシダワー氏と話すうちに、私の前には二重三重の人垣となり、壇上の皇太子殿下のお姿を遮ってしまった。
皇太子殿下のご挨拶が始まると、ダシダワー氏は私を最前列に押し出してくれる。私の腰の曲った老いぼれ姿は、皇太子殿下の席と十メートルも離れていない。
乾杯の後、殿下は壇上から降りられた。
すると白鵬大関の父君らが殿下の前に六、七人並んだ。とっさにダシダワー氏は私の背を押して、その後に並ばせた。アッという間のことだった。
皇太子殿下は、すでに私の前にお立ちになられており、
「春日さん、お大事に、ありがとうございました」
と申され、私はただただ涙が流れるのを拭う間もなく、
六十八年間溜まった涙がどっと溢れて眼がかすむ。「これをどうぞ」と、私が十二日に用意した
「五分間のご挨拶状」を入れた封筒をお渡しした。
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