第19121号 國民新聞 平成19年2月10日(土曜日)1、2月合併号近衛上奏文と皇道派(二)二・二六事件研究家 山口富永ユン・チアン共著『マオ』の三百四十六頁に、支那事変について、毛沢東が語った本心とされる一節が記録されている。毛思想をもって現在も一党独裁政権を維持している中共の指導者らは、これをどのように、日本が中国を侵略したと言い切っていることについて説明するであろうか。日本共産党も、あの戦争に反対した者は、共産党だけだった、と言っているがこれもどう説明するであろうか。『マオ』によると、毛沢東は側近達との会話で、「蒋介石と日本とわれわれは三国志だな」と語っている。つまりこの戦争を三つ巴の争いと見たのである。毛沢東にとって、抗日戦争は日本の力を利用して蒋介石を滅ぼすチャンスだった。後年、毛沢東は日本が「大いに手を貸してくれたこと」に対して一度ならず感謝の言葉を口にしている。戦後、訪中した日本の政治家たちが過去の侵略に対して陳謝すると、毛沢東は「いや彼らが中国を広く占領しなかったならば、われわれは現在もまだ山の中にいたでしょう」と。日本が中国、当時の支那と支那事変を起こす発端となった昭和十二年七月七日北支の盧溝橋事件は戦後になって、少なからぬ人達によって、バウロといわれた毛沢東の率いる共産軍の挑発に、日本が乗ってしまったものであるとの検証がなされた。『マオ』はこの検証を更に裏付けるものといってよいであろう。筆者も昭和五十年来、機会あるたびに、このことを言い、書き続けた一人でもある。満洲事変から支那事変に突入していく中で、軍の中枢部に共産分子がいたことを明らかにしようとして微力ながらも、筆者なりの努力をしてきた。日本が支那と四年間も戦争をしていて、行き先の見えない泥沼に足を踏み入れてしまった末に、米英、ひいては世界を相手とせねばならない南進に転じていった陰にあったものは、今となってみれば、スターリン、毛沢東の手先として日本で暗躍していたゾルゲ、尾崎秀實らの政治工作があったわけである。昭和十七年、ゾルゲと共にスパイとして処刑された尾崎が最後に言ったことは「日本を日米戦争までもっていけば、わが任は終った」ということであった。もって知る可きであろう。また、盧溝橋事件の起こった報告を受けた毛沢東は、同志と共にわが事成れりと狂喜したという。南進そして対米戦争、日本の敗戦へと誘導したスターリンの謀略に、当時の陸軍の統制派の指導者は乗ってしまったわけである。ここで支那事変に対して反主流の立場におかれていたいわゆる皇道派の将軍たちがいかに見ていたか、一例として真崎勝次海軍少将(代議士)氏の昭和十二年八月、すなわち事変勃発の一カ月後に、牧野伸顕内大臣を通して陛下に奉呈した上奏文を紹介したい。真崎勝次氏は甚三郎大将の実弟である。まず、氏は「支那事変に対する所見」として、
(一)動機の不純不明なることを挙げている。「いやしくも我が皇軍を発動せしむるには必ずや、万人の認めて以つて公憤を発するに足る正々堂々たる大義名分明らかならざるべからず。然るに今回の事変の動機は、一般人民はもとより知識階級否要路の士と雖も、極めて特殊の人を除いては其の真因を承知するもの少なく、又、直接の原因と称する盧溝橋事件の如きも、巷間既に各種の風説ありて当局の説明を信ぜず」と。次に(二)支那の内情観察について、「支那浪人並びに陰謀幕僚群の支那に対する観察(海軍も同様なり)は、蒋政権下の国民党政府さへ討伐すれば、本事件は全く解決するが如く思惟し、一、二ケ月経てば真に膺懲の目的を達し得るが如く安買いし、大言壮語して国民を煽りあるも、支那の実状は、決して然らず。抗日意識も亦、徹底し既に前回の満洲事変に際しても日本征伐の計画あり。又一方帝政権崩壊するも(実際には中々倒れずという)少なくも蒋同様の赤色政府樹立せられ人民戦線的に持久策を講ずべく、この間又、列強の支援操縦するありて、其の節決は当局並びに陰謀幕僚群の考へる如く簡単ならざるべし」。この見方は全く兄・甚三郎のそれであることは当然であろうが、真崎大将は二・二六事件を奇貨とし、青年将校を煽動したという反乱幇助の容疑者として、宇田川の陸軍刑務所に収監されていたのである。ちなみに支那事変に際して参内した杉山陸軍大臣が、陛下にどの位で片付くのかとの御下問に対して「三カ月もあれば」と奉答しているのと対比してみるとよいであろう。最後に「国内事情」を次のように述べている。「国内は三見挙国一致、愛国心に燃ゆるが如くなるも詳細に実情を調査すれば、必ずしも楽観を許さず、既に物価騰貴による跛行的景気の為、一部の人民は糊口にさへ窮して不平を漏らし、又、共産党の地下運動員優に一百万を算し(憲兵隊調査)、慰問袋にさへ宣伝文を封入しその成行きは軽視あたはざるものあり」と、そして、「本事変は国家危急存亡に関はることとして・・・これ以上一部の陰謀群に引きずられて権力者の統制きかず、国家の実力、軍の実力を算せず、又、支那の実情を誤認し、列強の肚を読みえず、何事の定見成案もなく、盲進長躯せば、身を抜き差しならぬ泥中に没し、立ち往生の姿勢に陥りたる時に、列強の袋叩きに会ひ、光輝ある皇国の前途に不安低迷するに到ることは、火を見るよりも明らかなり」と述べている。戦後の日本を見通した見識といってよいであろう。この奉呈文がニ・ニ六事件の青年将校に狙われた牧野伸顕伯を通して、陛下に上奏されたことは真崎大将と事件との関係を知る上にも、新しいヒントとなろう。戦時中、元社会大衆党の西尾末広氏は東條反対勢力の一人であったが、鳩山一郎、中野正剛、三木武吉らも入った会で、水谷長三郎、三田村武夫、笹川良一らと運動を進めたことを回想録で述べているが、「真崎勝次を中心に、三田村と私(西尾)が専ら作戦計画を進めた」という。(有馬学著『帝国の昭和』)。真崎勝次氏は二・ニ六事件の直後に青年将校に激励の電報を打ったという捏造した無実の罪を着せられ、大湊要港司令官から予備役に編入され十七年四月、佐賀県から衆議院に選出されたのである。統制派は陸軍から真崎大将を、海軍から弟の勝次少将を追放したのであった。ともあれ、筆者はこの勝次氏の奉呈又は、それから八年後に近衛公が上奏した前述の上奏文と一貫した流れの上にあるものとして、昭和史の研究に資したいと思う。前出の半藤一利氏は「もし二・二六事件が成功したとしたら、どうなったでしょうか」との問いに対して、「青年将校が指導者と仰いだ荒木も、真崎も対ソ戦を主張しており、ソ連と戦争になったでしょう。そして結果は、もっと惨たんたるものになったでしょう」(「読売新聞」平成十八年一月二十日付)と言っている。何を根拠にしてこのように言っているのか、聞きたいところである。また、「近衛文磨も、皇道派に大分吹き込まれていた」とも言っている。高橋正衛が二・二六真崎首謀説、組閣説を臆測で書いた如く、半藤氏は思い込みで述べ、昭和史研究家としては責任を問われるであろう。●Takashi
近衛上奏文と皇道派(一)の続きです 。
近衛上奏文と皇道派(三)に続く・・・。
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